障子紙の知識


障子の語源

『障子』の意味を、分解して考えます。

障=障害、障壁・・・と言うように、物を隔てる事を意味します。

子=扇子、杓子・・・と言うように、小さな道具を意味します。

つまり、『物を隔てる小さな道具』という意味になります。

 



市川大門町、紙の歴史

市川大門町の和紙の歴史は、およそ1,300年前の甲斐源氏の時代に遡ります。
甲斐源氏の祖・源 義清(新羅三郎義満の子)が市川大門町に居を構えた際、伴ってきた家臣の紙工 「甚左衛門」 が紙漉き技術を伝授したのが興りだと伝えられています。

「甚左衛門」 が紙を漉いたと言われている付近に、今でも小さな神社があります。
この神社の名を 「神明社」 と呼び、市川大門の和紙の興隆に貢献した紙工「甚左衛門」の命日7月20日に、紙の神をまつる 「神明社」 の祭礼日として盛大に花火を打ち上げられました。
里謡に 『七月おいで盆すぎて、市川の花火の場所であいやしょ』 と歌われ、『“神明の辻”の相撲』 とともに有名で 『神明の花火』 と呼ばれ江戸時代、市川大門の花火は、常陸の水戸、三河の吉田(豊橋市)とともに、日本三大花火に数えられたほどです。

以後、市川手漉和紙は武田氏時代や武田家滅亡後も徳川家の御用紙として幕府に献上されました。
和紙は「美人の肌のように美しい」というたとえで、「肌好紙」(はだよしがみ)と呼ばれ、漉元の職人は「肌吉衆」と呼ばれ特権を許されるなど手厚く保護されてきました。
千年以上も続く伝統の技術は、今も地場産業に生き続けています。
町内の業者は多種多様な紙を製造し、全国へ送り出しています。
中でも障子紙は全国シェアの40%(日本一)を占め、本町地場産業の中心となっています。



障子の機能と特性

これまで障子は情緒的な素晴らしさだけがクローズアップされ、科学的な特性や優れた機能についてはほとんど語られることがありませんでした。

障子は木綿の肌着
たった1枚の障子紙にも、まるで木綿の肌着のような暮らしの肌ざわりが感じられます。外からの強い光や熱をやわらげて肌を守ったり、室内の温度をほどよく調整したり、そしていつも清潔でありたいと願う心づかいまで、肌着にそっくりです。

視界をさえぎりながらも圧迫感がない
障子には人目をさえぎって、プライバシーを守る働きもあります。
外界とのつながりを残し、閉め切ったときの心理的な圧迫感をやわらげます。

障子の光は絹ごしの木洩れ陽
ヨーロッパよりも30%も強いといわれる陽射しを、やわらかく均一な光に変えてしまう障子。可視光線のほとんどを透過し、不可視光線(紫外線、赤外線)の約半分をカットします。これが目にやさしく、肌に心地よい原因となっています。

クリーンな空気を供給する障子
障子はミクロン単位のゴミまでも捕捉します。環境汚染が昔と較べてひどくなったこの頃、障子紙の果たすクリーン効果は貴重なものです。
また障子には湿度を調整する働きもあります。

冬暖かく、夏涼しい。障子は理想的な断熱壁
障子には意外なほどに断熱効果があります。たとえばガラス戸だけの室内から外へ逃げる熱ロスは一晩に約40%。そこに障子を入れると、その約半分もの熱ロスが防げます。



 紙の歴史  fiction  ミニロマン 

市川大門に紙漉きを伝えたとされる紙工 「甚左衛門」 さんの技術が、 『お札』 まで伝わっています。

鎌倉時代以前
正創院の古文書によると、13世紀から14世紀にかけて市川大門町の平塩の丘に 『天台宗百坊』 と呼ばれ、寺々がいらかを連ねていたとの事です。
京都南善寺の僧:義堂周信は、平塩に向かう僧に 『甲陽の繭紙は、玉のようで雲よりも白く美しい。 貴方が平塩に向かえば、その紙に得意の詩を揮ごうするかと思うと実に羨ましい。』 と言う手紙があるそうです。
1381年の高野山文書のなかに、―市川の紙は美人の肌のように美しい― 『肌好』 と言う内容の記述があるそうです。
これが、 「肌好紙」 の語源となります。

戦国時代
武田家が勢力を伸ばし、山梨県を中心とする地域を支配すると、自然と、武田家の御用紙として取り上げられなり、 「肌好紙」 が調法に用いられました。
天正10年(1583年)に武田家が滅ぶと、紙漉きの技術者が2手に別れます。
その1手は市川大門で紙漉きを続け、後に徳川幕府の御用紙を承り、 『肌吉衆』 と呼ばれ特権を許されるなど手厚く保護されてきました。この流れが、今の 『和紙の町:市川大門町』 の基礎を築いたのです。

江戸時代
あの 『内助の功』 で有名な、山内一豊は、関ヶ原の戦いの功労で、大出世!土佐一国の大大名に上りつめます。
しかし、土佐は長曾我部氏の残党が多く、それに対抗する為、各地の浪人を片っ端から取り立てたそうです。
なかでも、とりわけ旧武田家の浪人は、評判がよく多くの者が土佐に向かったようです。
そのなかに、紙漉きの技術を持つ者がいました。
取り立てられたお礼に、 「肌好紙」 を差し出すと、山内一豊の妻が手に取り 『これに色を染めて全国に売り歩きなさい』 と言ったそうです。2度目の内助の功です。


2度目の内助の功
山内一豊の妻の名を ”ちよ” と言います。 『千代紙』 の語源です。
2度目の内助の功は、産業を築き土佐を全国に知れ渡る 『紙の町』 へと発展させました。
勿論、 紙漉き職人の方々の努力が大きく影響しています。

*****土佐和紙の歴史*****
1591(天正19年) 安芸三郎左衛門家友、 養甫尼は伊予の旅人新之丞 から製紙の方法を学び、 後の「土佐七色紙」を 創製した。
1601(慶長6年) 土佐藩主、山内一豊 「土佐七色紙」を幕府に 献上する。 土佐の御用紙制度はじまる。
・・・時代的に合っていません。
伊野町 紙の博物館  http://www.tosawasi.com/index-2000.shtml


明治維新
薩摩、長州、土佐、肥後の連合軍が倒幕に立ち上がります。
倒幕軍が北上しますが、山梨の方面を攻めあげるのは、土佐の板垣退助 実は、事前に旧武田家の重臣:板垣信方にあやかり、改名していました。
おかげで、無血引渡し。近藤勇も途中で引き返したと言われています。


明治時代
薩摩、長州、土佐、肥後出身者が明治政府の中枢を握ることになります。
新政府の発行する 『日本銀行券』 =お札の紙が必要です。
当然、土佐が引き受ける事になったはずです。
初代 大蔵大臣 松方正義は、薩摩の出身ですが、紙漉き技術を土佐から学び、今の印刷局・造幣局へと進化したのです。
市川大門に紙漉きを伝えたとされる紙工 「甚左衛門」 の技術が 1,200年の時を超えて伝え次がれ、時代の求める物を造り、今に至りました。


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